■川崎夏の陣
『崖の上のポニョ』の主題歌が話題だけれど、大橋のぞみちゃんのバック・バンド(?)「藤岡藤巻」さんたちは、昔「まりちゃんズ」というグループ名で放送禁止歌を連発していた素敵なおじさんたちである(我が家にあった昭和49年(1974)の「guts」8月号で確認した──古い!)。
 まりちゃんズに関しては、個人的に『尾崎んちの祖母(ババア)』という歌がとても好きだ。この歌も一度聴くと、そのフレーズが耳に残ってしまってとても困る(賞めている)。バックギターは、あのCharだし。
 その「藤岡藤巻」さんたちがブレイク前、ライヴを開いていた(さすがにもう最近は無理のようだけれど)お店に、先日用事があって行ってきた。するとやはり店内には『崖の上のポニョ』の大きなポスターが貼られていたが、二人の顔はマジックで思い切り落書きされていて笑えた。あれも店長さんたちのひとつの愛情でしょう(か?)。

 無事に『全国「別所」地名事典』も読み終わり、仕事をじわじわと進めている。
まるで、敵侵攻に抗っての匍匐前進のようなもので、気を抜くと、一気に(I川《鬼平》&マダムJJ軍団に)攻め込まれてしまうやも知れぬという緊張の日々の連続だ。しかし、ルビコン川は渡らねばならぬのである。

 そんな緊張を緩和するべく(またか!)劇団四季の招待公演へ。
 今回も「昭和三部作」の一つの、『南十字星』である。前回の『異国の丘』の舞台はシベリアだったけれど、今回はインドネシアだ。
 インドネシアで敗戦を迎え、BC級戦犯として裁かれた人々──「裁判」とはいえないほど酷い戦争裁判によって有罪判決を受け、しかし神色自若として絞首刑台に赴いた兵士たちの話である。まさにこれも「鎮魂のミュージカル」に他ならない。
 そして毎回感じてしまうのは、自分がああいった立場に追い込まれた時に彼らのように振る舞えるか、あるいは、彼らをしてあれほど立派に振る舞わせしめたものは一体何か? ということだ。それは思想なのか、教育なのか、愛情なのか、矜恃なのか……。とても深い。
 先日の沢さんからも戦争のお話が出たし、私たち夫婦の仲人さんは実際に特攻隊員だった。仲人さんはもう亡くなられてしまったけれど、お二人とも非常にニュートラルな立場からの意見を持っておられて、大いに勉強になった。
 歴史はすぐに風化、あるいは美化、あるいは改竄されてしまう。だから我々は、きちんとありのままの「事実」を知っておく必要があるのだと痛感した(しかしその「事実」の入手が難しい)。

 さてさて、そろそろ出雲行きの予定も組まなくてはならない。
 そこでI川《鬼平》さんや、現地の旅行会社の方と連絡を取り、細かい日程を打ち合わせている。だがこれまた強烈な日程になりそう。
「もしもこのフェリーを逃したら、その日はどこに泊まろう?」
 という熾烈なスケジュールだ。これまたドキドキものである。これを利用して時刻表トリック物でも書いてみようかなどと、インターネット&本の時刻表を交互に眺めながら思ってしまった。
 そういうわけで来週、I川《鬼平》さんに会わなくてはならないと覚悟を決めていたら、余りにも忙しすぎて全く時間がないという。そこで「無理をなさらずに」と優しく身を引こうとすると、
「それならば明後日の夜に、そちらまで伺います。きっと、原稿もかなりできあがっているでしょうから、よろしければその部分まで目を通させてもらいに」
 などというとんでもないことを言い出した(原稿がきちんと順調に進んでいるなどと私が言ってしまったためである)。
 しかもその翌日は、甥っ子を連れてこっそりと劇団四季の『むかしむかしゾウがきた』を見に行く予定になっているではないか! まずい……と、しばし悩んだが、結局お会いすることに。
 自由が丘でお会いして、次回作の簡単なあらすじや、それ以降のスケジュール、そして出雲取材旅行の打ち合わせなど。外堀を完全に埋められてしまった大坂冬の陣後の徳川秀頼のような心境だ。
 あとは、あるイベントの相談などをしたのだが、話が盛り上がってしまい、久しぶりに少々飲み過ぎた。やはり近場で飲んでいると、安心してついつい飲み過ぎてしまう。危険だ。おかげで、当日の打ち合わせは半分くらい覚えていない(嘘ですってば)。
 ということで、そろそろこの「Essay」も「対編集者バトル日記」という題名に変更しなくてはならないかも知れない。
2008年07月22日(火)06:13

 ■高田乃(すなわ)ち学習す
 少し前の話だけれど、夕食時にニュースを見ていたら、肺結核で入院した患者さんが入院中に煙草を止めようとしたが、禁煙パッチが健康保険適応ではなかったために入手できず、禁煙できなかったという話をしていた。その結果、肺結核治療中だが、まだ煙草を吸っているという。
 それを受けて担当の女性ドクターが「禁煙治療は保険適応にするべきだ。健康保険さえ適応されていれば、患者はきちんと禁煙できていた」と訴えていた。
 何かのジョーク(コント)かと思ったら、本当の話だったので驚いた(もちろん禁煙パッチは、自費で購入できる)。
 ちなみに禁酒薬は保険が効くけれど、あの薬もなぜ保険適応になっているのかは大いなる謎だ。どうして個人が禁酒・禁煙をするために、わざわざ公の(しかも、かなり逼迫しているという)保険を使わなくてはならないのだろう。世の中には不思議なことが実に多いものだ。

 不思議なことといえば、やはり〆切だ。
 どうやら現在I川《鬼平》さんたちは、土日休日もなく働いているらしいのだけれど、おかげで無休で連絡が入ってくる。しかも電話で話すたびに、〆切が数時間ずつ早くなっている気がする。
 これはきっと「マダムJ」の陰謀だと思う。いわゆる「だるまさんがころんだ」方式だ。相手に気取られないように、少しずつじわじわと人の領土に侵入してくるという、第二次大戦で某国が用いた戦術だ。恐ろしすぎる……。

 しかし何とかゲラを終わらせて、読書中。
 先日、沢史生さんにお会いしてお話をうかがった。その際に『全国「別所」地名事典──鉄と俘囚の民族誌──蝦夷「征伐」の真相』という、非常に立派な書物をいただいた。この本はいわゆる世界大百科事典のような装丁で、上下巻、それぞれ7センチほどの厚さがある。しかもきちんと二段組み。
 これを何と、3〜4日で読破しなくては予定がまたしてもずれ込んでしまうので、必死で読んでいる。しかし非常に参考になるし、とても面白い。
 ちなみに、ここでいう「別所」とは──ごく簡略に説明すると──坂上田村麻呂たちによって「征伐」された蝦夷たちが「俘囚」として連行され、居着かされた土地のことだ。それが日本全国各地に点在しており、いつの間にか今は「悪所」とされてしまっている所もある。
 ところが、実はこの書物によればその数は実に膨大な数に上り、現在我々が住んでいる土地が、殆ど当てはまってしまうのだ。
 もともと過去の日本には「殿上人(五位以上の貴族)」と「人でなし」しかいなかったのである。「人」と「鬼・河童」(その間に「武士(さぶろうもの)・陰陽師」)だ。それを改めて実感させられた。

 さて、いよいよ今年最大の〆切がやってくる。大丈夫か。いやそれは誰も知らない(こら)。

 ps.今回のタイトルは非常に分かりづらいと思うので、粋ではない解説を加えておくと、これは「暦七十二候」で今の時期を表す「鷹乃ち学習す」からきているのだけれど、実際問題として誰が分かるというのか?
2008年07月14日(月)06:47

 ■棚機津女に宿借らむ
 先日、貴子さんが我が家に来て、一緒に熊野の色々な資料を眺めていた時、巫女さんが大きな熨斗を頭の後ろに飾っている写真を再度見た。
 そこで、その場にいた姪っ子に「これはね、この人が神様への贈り物ですというしるしなんだよ」と説明したのだけれど、その意味が分かっただろうか。
 そしてそれが分かれば『かぐや姫』の物語(高貴な人たちからの求婚を一方的に断る行為)が、何故あれほどもてはやされたのか、そしてまた棚機津女たちの悲しみも理解できるのだろうけれど、年齢的にまだ無理か。

 そんな七夕だというのに(?)相変わらず自宅軟禁中。
 先日は、高里椎奈さんの文庫『蝉の羽──薬屋探偵妖綺談──』の解説を書かせていただいた。しかも、原稿用紙10枚程度といわれていたのに、あっさりと17枚を超えてしまった。そのために文庫本の定価が10円値上がりしていたら私のせいです(嘘)。
 私は基本的に、解説は書かない(書けない)ので、通常は申し訳ないけれどお断りしているのだが、今回だけは特別なる事情があってお受けした。そしてその理由はというと、解説冒頭に書かせていただいたので、興味のある方は(ない方も)『蝉の羽』をお買い求め下さい。とても素敵な作品なので、お勧めします。8月中旬発売予定だそうです。
 などといって、自分の文庫も今月発売されることを思い出した。何かもう遙か昔に通り過ぎてしまったような出来事のような感覚である……。

 ということで「メフィスト」原稿を頑張る。
 本来の〆切まではまだ間があったはずなのに、いつの間にか予定一杯一杯になってしまった。全く考えられない状況である。それもこれも、後が詰まっているからに他ならないのだが、文三の編集長が「マダムJ」になってから〆切が少しずつ早まってきているような気がするのは私だけだろうか(反語)。いつの間にか、ゆっくりじわじわと両側の壁が迫ってきて、気が付くともうどこへも逃げられなくなっている……という、まるで「サイボーグ0012」のような恐ろしいシステムになっているのだ。
 しかしとにかくこれで「メフィスト」は、2000年5月号から次号までで、24号連続で執筆させていただくことになった。実にありがたいことだけれど、いつの間にか長老になってしまったような気もする。ランドセルを背負って「メフィスト」を読んでいた子供もすっかり大人になって、今や葉巻をくわえてカクテル片手に読んでいるということになるのだが、そんな子供がいたら不気味だ。
 だがこうなったら、いっそのこと連続で28号まで行って「メフィスト鉄人賞──衣笠・金本賞」を獲得したいと思っている(そんなものあるのか?)。

 ところで最近はI川《鬼平》さんに、原稿進捗状況に関して現在進行形での報告を義務づけられてしまっている。どうも信用がないらしい。
 私を信じなくて誰を信じるのかとも思うが、我が身を振り返って、むべなるかなと思う点も多々あったりする(こら)。
「本当にダメな場合は、カンヅメになって書いていただきます」
 などと『蟹工船』を彷彿させるようなことまで言われたので、
「それならばぜひ、箱根か修善寺辺りで」
 と希望したら、本気でぶっとばされそうになってしまった。

 などと、こっそりこの場に書こうとしたら、夜半に噂の主・I川《鬼平》さんから、原稿進捗状況確認の電話が入った。しかも、
「じゃあ、ちょっと電話を代わりますね」
 と言うので、誰と一緒に飲んでいる(?)のかと思えば、これまた話題の主・文三の風紀委員長「マダムJ」だった。そこで激励(という名の督促)を受け、頑張りますと答えると、続いて文庫の高里さん担当のH田さん、そして部長のK木さんまでも。
 一体彼らはこんな時間に、どこで何をしているんだろうか? 怪しい新興宗教団体でも結成したのだろうか? 「厳守〆切教」とか……。
 まあ、どちらにしても、おどろおどろしい集まりに違いはないと推察されるので、私はそそくさと電話を切ろうと思ったのだが、最後にやはりI川《鬼平》さんに代わって、再度厳しく状況をチェックされた。せっかく部屋でくつろいでいた(おい!)というのに、鬼とは、かく言うぞ──である。そこで私は、再び仕事に邁進することにした。

 さあ、もう少し頑張れば、きっとぼくらの前には明るい未来がやってくる……のか?
2008年07月07日(月)05:39

 ■もう1回だけ岡林信康
 ひたすら仕事に励んでいる。
 本来ならば素敵なイベントが1つ入るはずだったのだけれど、先日の取材旅行中にI川《鬼平》さんから、
「はあ? 何を言っているんですか。それは○○と××の原稿が上がってからに決まっているでしょうがっ!」
 と冷やかに、かつ高らかに宣言されてしまったので、取り敢えず延期・長期スタンバイ状態になっている。しかし色々と約束してしまった人たちもおり、大変な状況に陥ってしまった。ちょっとスリリングな日々である。

 そんな緊張感を癒すべく(?)劇団四季『思い出を売る男』の招待公演に。
 この舞台は劇団四季創立メンバーの方々の恩師である、加藤道夫さん原作のストレート・プレイで、終戦後の東京裏町を舞台に展開される、ちょっとミステリアスなお話。昭和20年代と思われる舞台セットを目の前にして、幕が上がる以前にもう、あちらの世界に引き込まれてしまう。そこに、サキソフォンの郷愁を誘う音色だ。もう一瞬でやられてしまった。とても面白く拝見させていただきました。

 その後、なぜか劇場前まで迎えに来てくれたK東《夜叉編》さんに拉致されて、新橋へ。色々なお話をしながら飲む。そして(予想通り?)そのまま銀座・ARCANEへと移動した。
 ARCANEではなぜか「ケロヨンくん」のDVDを見ながら、先日の取材旅行の話──というより、主に岡林信康さんのコンサートの話で燃える。
 実を言うと私は、リアルタイムでは、それほど岡林信康さんに入れ込んではいなかった。というのも、私の少し上の年齢の人たち誰もが「岡林は良い」「岡林は最高だ」と言っていたので、生来の天邪鬼である私は少し距離を置いていたからだ。
(ちなみにこれは私の変わらぬ癖で、現在も、誰もが「良い」「最高」と言っているものには、リアルタイムでは近付かない。必ずそのブームが沈静化するのを待って、近付くことにしている。だから常に時代に乗り遅れている)

 そんなある日(といっても、10年以上経ってから)テレビで岡林さんが『君に捧げるLove Song』という歌を歌っているのを聴いた。それは、

「悲しみにうなだれるきみを前にして、そうさ何もできないでいるのがとてもつらい」
「きみの痛みの深さは分かるはずもない、何か2人は遠くなる、目の前にいるというのに」
「何もできはしない、そんなもどかしさと、逃れずに歩むさ、それがせめてものあかし」

 などという歌詞の歌だった。
 何かとても感傷的な歌だな、けれどちょっと引っ掛かる歌詞だなあ……などと思いながらしばらくそのまま忘れていたのだけれど、その後何かの雑誌(本だったか)で、実はこの歌は、岡林さんの親友のカメラマンの男性が病に倒れ、闘病している姿を目の前にして作った歌だったということを知った。そして結局その親友は、34歳という若さで亡くなってしまったという。

 この歌は、単なる甘ったるい恋愛の歌ではなかったのだ。題名から、勝手にこちらで普通のラブソングなのだろうと思い込んでいただけだった。
 そこで改めて歌詞を読み返し、物凄くショックを受けた記憶がある。私自らの体験と相まって、その時はまさに言葉を失ってしまった。私の場合もそうだったのだけれど、ここでいう「Love」は「Eros」ではなくて「Agape」だったのだ(いや正確に言うと「Aphrodisia」と「Eros & Agape」か)。
 しかもこの重い歌を岡林さんは、全く気負うこともなく淡々と歌っていた。という以前に、作詞作曲当時の彼の33歳という年齢を考えると、自分の身を振り返った時に忸怩たる思いに捕らわれてしまう。
 私生活やその他のことで、色々と噂の絶えなかった岡林さんだったけれど、この歌を作られたということで、私はその時以来、密かにファンになっていたのである。ただ、その辺りの話をすると、どうしても自分のつらい思い出と重なってしまうので、特に表立って言ったりすることはなかったのだが、これも今回、きっと何かの縁だろうと思ってちょっとだけ触れてみた。

 さあて、いよいよ追い込みですな。気を引き締めて行きましょう(まるで他人事……)。
2008年06月30日(月)14:51

 ■火の国へ
 梅雨前線の北上と日航ストライキにもめげず、I川《鬼平》さんと共に熊本へ取材旅行に出かけた。
 しかし、やはり私の日頃の行いが良かったことと、鬼運(?)のI川《鬼平》さんもいたこともあり、殆ど影響も受けず順調に過ごせた。初日の阿蘇・熊本では、タクシーの運転手さんに、
「昨日は久しぶりの物凄い豪雨で、電車が全部止まっとりましたばってん、今日で良かったとですよ」
 と言われ、また2日目の天草・島原では、
「いやー、昨日は大変でしたけん、大雨で川も氾濫寸前で。それに、ほらあそこ。崖崩れもあるでっしょ」
 などと言われて見れば、実際に行く手には大きな岩が転がり落ちていて、その箇所は片側通行になっていた。
 つまり我々の出発がもう1日早かったら、各地はそれぞれ大雨で、I川《鬼平》さんと私は、宿から1歩も外に出ることができなかっただろうということになる。
(後から改めて聞くと、かなりの大きな被害が出ていた様子。先日の岩手・宮城地震同様にどうしようもないのは分かっていても、やはりどうしてもやり切れなさは残る。人災ではないことを祈るばかりです)

 そういうわけで神に感謝しつつ我々は、紙一重でつつがなく取材をこなすことができた。しかも、思っていた以上に収穫も大きく──何度も書いているけれど──やはり、現地に足を運んで初めて分かる事実や地元の人たちの変わった言い伝えなどはとても多い。

 今回は地方を中心にまわったので、交通手段も飛行機・電車・バス・フェリー・タクシーと「バビル2世」のように(?)あらゆる乗り物を駆使し、また移動時間も普段より長かった。
 するとI川《鬼平》さんは、さすがに用意周到で、仕事道具(「メフィスト賞」応募原稿)を持参しており、それを常に携えて移動時間を利用しては、一所懸命に目を通していた。今回「メフィスト賞」に応募したあなた、I川《鬼平》さんはしっかりと真剣に読んでくれていましたよ(といっても、もちろんそれが誰のどんな原稿かは、私は全く知らない)。
 そしてその間私も、資料整理&読書&シエスタ(こら)。

 そんなこんなで取材をこなしていたら、何と物凄いイベントを発見!
 2日目の夜、熊本の宿の近くで、あの岡林信康さんのチャリティ・コンサートが開かれるという。
私の年齢以上の方々であれば、充分にこの凄さの意味を理解いただけると思うが、若い方(I川《鬼平》さんも含む)のために簡単に説明しておくと、岡林信康さんというのは昭和43年(1968)に22歳でデビューして以来、「フォークの神様」と呼ばれた、本当の意味でカリスマ的存在の歌手なのだ。しかも、その作品のテーマが、山谷の労働者であったり、いわゆる部落の人たちであったりという問題作も多く、放送禁止処分も多く受けている。そして遙か昔に聞いたところによれば、色々な方面から常にチェックをされていたという。つまり、それほどまでに当時の若者に対しての影響力が絶大だったのだ。
 しかしその後、わずか3、4年ほどで表舞台から姿を消して農村に移り住み、同時にライヴ活動も停止してしまった。
 ところが去年あたりから、36年ぶり(!)に少しずつ活動を再開し始めているという噂を聞いてはいたけれど、だが昔の歌は全く歌わないということだった。 
 そんな岡林信康さんが、ピンポイントで1晩だけコンサートを開くという。これを行かずして、一体何に行けと言うのか(誰も言っていないけれど)。
 しかもまたしても、その開催日か、もしくは我々の到着が1日前後にずれていたら、時間的に全く無理な話だった。僥倖以外の何物でもない。
 そこで私は何とかI川《鬼平》さんに泣きついて、1時間だけ外出許可(?)をもらい、1人でそそくさと出かけた(その間、I川《鬼平》さんはまたしても「メフィスト賞」原稿をずっと読まれていたらしい。恐るべし……)

 会場の市民大ホールは平日というのに2階までほぼ満席で、私は1番後ろに座った。そして、ステージ上でアコースティック・ギター1本を抱き「自由への長い旅」や「チューリップのアップリケ」や「山谷ブルース」を歌い上げる岡林さんを見て思わず涙、滂沱滂沱。
 しかし現在のメイン活動は、ギター1本というよりも和太鼓や尺八・三味線などを取り入れた和風バンドでの歌作りをされているようで「日本語に1番合っているリズムとメロディ」というそちらの新曲も聴くことができた。
 その後はI川《鬼平》さんと待ち合わせて移動し、今後の仕事のことなどをじっくりと話し合いながらお食事。とても美味しい馬刺しと焼酎を(たくさん)いただいた。

 3日目は熊本市内をまわる。こちらも創建1500年祭、という古い神社から、新しい謎の神社まで。その間に、タクシーの運転手さんから方言にまつわる色々なお話を聞くことができた。実に面白い。
 そして最後は、「黒亭」の熊本ラーメンとビールで乾杯。
 新刊丸々2冊分ほどの資料もゲットでき、とても充実した3日間でした。

 さてさて、そんなこんなで家に戻ったら、何とマイ・シスター・椹野道流さんより、大量に梅が届いた! ということで、今日は1日至福の(以下自粛) 
2008年06月25日(水)09:12

 ■さあ追い込みだ……日程だけが。
 最近『蟹工船』が売れている現象を評して「それは現代の若者が、自分の置かれている立場や環境を考えた時に、非常に共鳴できる状況(同じような境遇)であると思えるからだ」(高田意訳)
 などと言っていた人がいたけれど、「現在の状況」と『蟹工船』では、『蟹工船』と『異国の丘』くらいの大きな隔たりがあると思う。

 35年ぶりに開かれた、麹町小学校のクラス会に行って来た。先日の「メフィスト賞同窓会」といい、今年はそんな年回りなのだろうか。
 卒業以来初めて会ったクラスメイトもいたけれど、一瞬で昔に戻ってしまうのが面白い。微かに残る面影もそうだが、声が一番変わっていないせいなのかも知れない。
 しかし、日常に戻れば「社長」や「部長」や「支店長」や「ドクター」なのに、そんな肩書きが通用しない(通用させない)場が楽しい。しかも、
「○○は△△△△大使館に住んでいたけれど●●だった」とか、
「××は▲▲▲長官の息子だったのに、毎日プロレスごっこで負かされていた」といったローカルな話題で盛り上げれるのも愉快だ。
 ちなみに、万が一私に関してのそういった類の書き込みがBBS等にあったとしても、瞬時に削除できる体制が敷かれているので、同級生諸君は無駄な時間を費やさないように(というより、お互い立派な社会人として、そういう行為は止めましょう)。
 とても素敵な時間を過ごさせていただきました。

 仕事は、ひたすら「メフィスト」。
 とにかく今月中に書き上げてしまわないと、次に進めない。「メフィスト」の本当の〆切は7月下旬なのだけれど、トコロテン方式でこんなに早くなってしまった。I川《鬼平》さんは喜んでいるようだが、私にとってはおおごとである。
 しかしそんなことを言うと、
「まあ、何があっても最終〆切(次の次の原稿の〆切)は変更がききませんから」
 と冷たく宣言された。だがそんな中「小説現代」のエッセイと、「IN★POCKET」の原稿もそつなくこなしているのだ──とここに書いても、ちっとも現状打破・環境改善・待遇是正にはならないけれど、悔しいので(?)書いてみた。

 明日から、梅雨の中を九州に出かける。しかし、おそらく例によって雨をかいくぐって移動できそうな雰囲気。
 I川《鬼平》さんとも途中で合流して、夜は旅館で説教をくらうらしい。そこで私は、早めにお酒を飲んで酔っ払ってしまう作戦を取るべく、マイ・スキットルを持参することにしたのだが、こんなこともいちいち報告しないように。

 いよいよ椹野道流さんの、サイン会だ。
 とても緊張している様子なので、お時間のある方はぜひ顔を出してあげてください。からかうだけでも(こら)。
2008年06月21日(土)10:50

 ■今夜は水無月十三夜
 岩手「鬼の館」の鈴木さんからおハガキをいただいたその翌日に、岩手・宮城地震が起こってしまった。つい先日、I川《鬼平》さんたちと訪れた地域だ。
 あの日、直接お会いした方はもちろん、そちらにお住まいの方も、ご無事と一刻も早い復旧、そして復興を、心よりお祈り申し上げます。

 さて、文庫『パズル自由自在』のゲラを無事に戻した。これで7月刊行の責任は、私からN川さんへと移行したことを明言しておきたい。
 ちなみに解説は、大矢博子さんにお願いした。
 まだ1度も直接お会いしたことはないのだけれど、黒田研二さんから噂だけはお聞きしている。この間のメフィスト賞同窓会で、文庫解説を大矢さんにお願いしたというお話をすると、
「ええ、聞いています。頑張って書かれているようですよ。資料集めに、ぼくがこき使われていますから」
 とおっしゃっていた。これはあくまでも黒田さんからの一方的な情報にすぎないので即断は避けたいけれど、かなり信憑性のある話らしい。
 しかし、どうしてこういった話(解説等の依頼)は、ほぼ1ヶ月前なのだろう。出版予定は早くから決定しているのだから、もっと余裕を持って依頼すれば良いのに……などと思ってしまう。何か暗黙の隠されたルールでもあるのだろうか。
 いずれにせよ、お忙しい中をありがとうございました。
「感謝しています」と「官社指定バス」はちょっと似ているけれど、そのバスは何?

 久しぶりにラジオに行って、尾崎さんに盛岡の「見聞録」の写真などをお見せしながら、色々とお話。
 地震以前だったので「あちらには、またちょっと変わったバーがあるんですよ」などという話題で盛り上がった。いずれぜひ行かなくては。「一の宮巡り」や「百寺巡礼」に続く「日本の名Bar巡り」の旅だ。これは実に素晴らしい企画である。ぜひどこかの出版社で、企画会議に挙げて欲しい。その際は、もちろん尾崎さんと私がレポーターとなり、万難を排して伺いたい。
 などと話していた数日後に、冒頭の地震が。
 どうか被害が、最小限であることをお祈りします。 

 こちらも久しぶりに、Megurigamiくんと銀座ARCANEへ。
 憂歌団のライヴ映像をバックに、ファンクラブ関係の簡単な打ち合わせをしつつ、レオナルド・ダヴィンチと辻村深月さん(なぜ?)の話などをして、珍しいリキュールをたくさん飲むという、変わった酒席。次回はタロット占いをしてもらおう。

 などということばかり書いていると、I川《鬼平》さんに本気で怒られる(すでに怒られつつある)ので、今回はこの程度で止めておきたい(他にもあるのか?) 
2008年06月16日(月)11:18

 ■風の向くまま、気の向くまま……(嘘)
 その規模の大小に関わりなく、組織には必ずほころびが出る。それは全く当然のことであって、人間の体も同じだ。そしてそれは、きちんと修復しさえすれば良いだけのことだ(多少の老朽化は仕方ないとしても)。
 しかしここで、関係者がその事実を隠匿し始めると(その行為を取らざるを得ない理由云々に関わりなく)一気に壊死が進んでしまう。「体調は全く悪くないのだから、放っておいて」という発言と同様だ。
「殺人ってやつは、むろん恐ろしいことだ。しかし、その痕跡を隠蔽しようとしだすと、ますますもっと恐ろしい事態になる」(宇野利泰訳)とは、ロード・ダンセイニのミステリの主人公のセリフだが、この「殺人」を他の言葉に言い換えても、そのまま通じるだろう。
 そして特に組織に関して何が恐ろしいかと言えば、その「隠蔽」が露見した時点で、長きにわたって築き上げてきた信頼関係が、全てゼロになってしまうということだろう。下手をしたら致命的な事態に陥ってしまう。
 つくづくそんなことを考えてしまった。

 閑話休題──。
 さて、余りに盛り沢山で、一体どこから書いて良いものか分からないくらいなのだけれど、取り敢えず時間軸に沿って2点だけ。

 またしても大阪に行って来た。
 マイ・シスター・椹野道流さんが、4年ぶりに(なにっ!)鬼籍通覧の新刊を出されたということで、そのお祝いの食事会出席に絡めて、1人で京都〜大阪の取材。
 まず京都は亀岡、丹波国一の宮の出雲大神宮へ。
 この神宮は、今年で創建1700年を迎えるという。何しろ「崇神天皇の御代に修復(!)された」というのだから、それが事実であればとんでもなく古い。
「少なくとも、出雲大社よりはずっと歴史があります」
 と神職の方がおっしゃっていた。当然、見るべき所も充分にあり、とても勉強になった。

 続いて大阪に出て、四天王寺へ。
 早朝の雨もすっかり上がって、暑い陽射しの降り注ぐ中、広い境内をまわる。
 すると、ある場所でふと気付いた。もしかしてこの○○は、例の××じゃないのか? すると例の××は、当然△△ということなのではないか!
 いずれ書きます。 
 その帰りに、ちょうど天王寺公園で開かれていた「聖徳太子展」を観る。最終日近いということで凄い人出だったけれど、一所懸命にまわった。

 環状線に乗って大阪駅まで戻り、ホテルにチェック・インして、フロントで待ち合わせていたマイ・シスターと久しぶりに対面。とても美しくなられていて、兄(私です)は驚いた。一仕事終えた後の充実感のオーラに全身包まれていたせいだろうか。やはり人間、きちんと仕事をしなくてはいけない……ですね、はい。
 講談社からは、椹野さん担当のO本さんがみえて、3人で美味しいイタリアンをいただく。
 私はもちろんイタリアンは好きなのだけれど、1点だけマズい物がある。それは、例の赤くて果物だか野菜だか分からないリコピン一杯の植物だ。
 なので、それらを全てマイ・シスターに任せて(ついでにメインディッシュも半分ほど任せて)とても美味しくいただいた。

 その後は3人で、ホテルのバーへ。
 するとO本さんは、明日一番の仕事が入ってしまったため、当日の夜行列車で東京に戻るという。びっくり仰天してしまったけれど、意外に本人は楽しそう。
 私も若かりし頃に、夜を徹した夜行列車に何度か乗ったことがある(ちなみに初めて乗ったのは中学3年の時で、長野まで1人旅を敢行したのだけれど、今思えばよく両親が許可してくれたものだ)。しかし今は、すっかり様変わりしているようで、O本さんの乗られる列車は個室になっているという。
それは確かに、ちょっと楽しいかも、などと思ってしまった。
 そこで仕方なく(?)、列車の出発時間まで延々と飲み、その勢いに任せて椹野さんに仕事を振る。
 夕食のご相伴に預かってしまったし、少し恩を返さなくてはならないと思い、妹を売ってみた。おかげで恩も返せたような気がするし、同時にO本さんばかりかA藤《修羅編》さんにまでも貸しを作れたようで、首尾は上々だ。あとは妹に泣いてもらえばいいのである(鬼)。

★ここでお知らせですが、今月の21日(京都)、22日(東京)で、椹野道流さんのサイン会が行われます。すでに今からちょっと緊張しているようなので、ご都合のつく方は、ぜひ励ましに行ってあげてください。詳細はこちら。

http://www.kodansha.co.jp/event.shtml/

 後ろ髪を引かれるように(?)東京に戻るO本さんを見送った後、我々2人は3次会に突入。しかし何故か居酒屋。しかも椹野さんは、クリームコロッケを注文。その上完食。恐るべき女性である。一方私は延々と飲んでしまい、私にとっては「深夜熟睡中」、椹野さんにとっては「通常仕事時間」という時刻にお別れした。
 お付き合い、ありがとうございました。

 さてさて──。
 続いて6月6日午後6時より、驚天動地の「メフィスト賞同窓会」が開催された。
 私はデビュー以来、作家さんの集まりやパーティーには、たった1度しか参加したことがない。それは、京極夏彦さんが直木賞を受賞された時のパーティだ(しかもその時は、綿矢りささんが芥川賞を受賞されていたために、「本当は綿矢さんを見に行ったんでしょう」などという酷いことを、某編集者に言われてしまったのが辛い)。
 なので、10年間で2回目の、作家さんの集まりへの参加。
 以前に宇山さんが、
「いつか、メフィスト賞の人たちを集めて、パーティを開きたいねえ」
 とおっしゃっていたのだけれど、かなわず2年前に他界された。
 しかし今回、そんな言葉を具現するかのように、霧舎巧さんや黒田研二さんを中心に、自然発生的に起こった会なので、喜んで参加させていただいた。

 ちなみに当日の参加者は(受賞年代順に)、清涼院流水さん、蘇部健一さん、乾くるみさん、浅暮三文さん、高里椎奈さん、霧舎巧さん、黒田研二さん、秋月涼介さん、北山猛邦さん、矢野龍王さん、辻村深月さん、深水黎一郎さん、汀こるものさん、そして森博嗣さんの「次回は参加したいのでよろしく」(高田意訳)というメッセージを携えて、私の14名。
 ここぞとばかりに、サインをいただいてしまった。
 今回の「同窓会」には、編集者の方々は全く参加されず、講談社の会議室集合の後、我々だけで移動。某所の一室を借り切って飲みかつ食べながら大いに談笑した(浅暮さんと私は、ほぼひたすら痛飲した)。
 もちろん、そこで何がどのように話されたかは記さない。というより、さすが「メフィスト賞受賞者」で、話題がてんでバラバラ。しかし、最後は何となくまとまるという、近来希に見る素晴らしい集まりだったのではないだろうか──と自賛しつつ、次回の幹事もまたぜひ霧舎さんと黒田さん、お願いします。

 二次会後は、そのまま散会となったのだけれど、電車の中でバッタリ(本当ですってば)清涼院さんと浅暮さんにお会いして、ぶらり途中下車して改めて飲み、そこでも熱く語り合った。
 実に公私とも(?)非常に充実した1日でした。

 さあ、次は仕事だ……よね。

追伸&訂正:出雲大神宮は「社殿創建1300年」でした。神宮の「創建」自体は、崇神天皇以前(AD.300以前)となっているようです。
2008年06月08日(日)15:37

 ■菖蒲花咲く勝負の月……なのにね
 また3リットルの密閉ガラス瓶を買ってしまった。これで都合12本になる。
 今回は大棗(たいそう=なつめ)を単味でホワイト・リカーに漬けてみた。
 ちなみに我が家にある生薬酒(梅酒・梅ブランデー等を除く)は、「朝鮮人参酒」「田七人参酒」「紅参酒」「霊芝&大棗酒」「補中益気(ほちゅうえっき)酒」「クコ&桂皮酒」「冬虫夏草酒」である。おそらく御名形史紋並みのラインナップだろう。
 しかし、これがまたどれも美味しくて、ついつい飲み過ぎてしまうので、特に「朝鮮人参酒」などは、妻から3年間の封印を宣告されてしまった。そのため、1番早いものでも、口にできるのは来年の4月だ。今から実に待ち遠しい。
 また「冬虫夏草酒」は、LAMADAIくんによると「毎晩飲めば、20歳に戻る」そうなので、これもまたもうしばらく置いたら飲み始めたい。

 先日は、劇団四季『異国の丘』を観に行った。「昭和の三部作」の1作である(あと2作はご存知のように『李香蘭』と『南十字星』)
 この作品は、太平洋戦争前夜の首相・近衛文麿の子息である近衛文隆氏をモデルにして作られている。
 文隆氏は首相の子息でありながら、何故か前線に送られ、そして終戦と同時にソ連軍に拉致され、シベリアへと送られたという。60万人の日本人強制労働者のうち6万人(一説では40万人)が、過酷な労働と、飢えと、マイナス40度にも達する寒さのために命を落としたというシベリア抑留である。
 そんな中を文隆氏は11年もの長きにわたって強制労働に従事させられ、ついには日ソ国交回復宣言に伴う捕虜解放の当日(!)に、収容所内で絶命したという。かなり脚色はされているものの、基本的には事実に基づいた設定になっているようだ。

 かなり重いテーマだということは承知していたけれど、やはりこたえる。亡くなった文隆氏たちの霊が歌うという設定の「明日への祈り」が、歌詞・曲ともになかなか耳から離れなくて困った。
 私も以前店頭に立っていた時、実際にシベリアに抑留されていたというお年寄りから、薬局にみえるたびに現地での厳しい体験談を色々と聞かされた。もう、その方も亡くなってしまったけれど、そんなこともあり、実にリアルな舞台だった。
 しかし──まるで若者たちの思考停止を狙った陰謀かと思えるほど──お気楽で軽薄なバラエティや歌が氾濫している現代の日本で、このような舞台、しかもミュージカルを上演することは快挙だと感じた。
 というのもこの舞台は(歴史を語り継ぐということはもちろんとして)実に立派な「鎮魂」の役目を果たしているからだ。実際にシベリアで亡くなってしまった人々の残した声がセリフとなって蘇り、現地で作られたという歌が流れる。そして最後には祈りがある……。
 そういう意味からもこの舞台は、ぜひとも長く上演し続けていただきたいと心から思った。

 さてさて、そんなこんなでもう6月。
 しかし今週は、何故かスケジュールが一杯。そして読まなくてはならない書物が山積。なのにまたちょっと出かけます。
 ということで、次回の「Essay」は、きっと盛り沢山(泣かないでI川《鬼平》さん)。
2008年06月02日(月)16:40

 ■陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに
 無事に陸奥より帰神しました。
 台風がやって来ていたというのに、殆ど雨に降られず。しかしこれには理由があって、I川《鬼平》さんと一緒に「鬼」の史蹟をまわるという作戦が功を奏したようであった。
 移動中は雨が降っていたため傘を用意したにもかかわらず、I川《鬼平》さんと一緒にお参りをしようとすると雨が上がるという、超常現象を幾度か経験した。やはり彼女は間違いなく「鬼」──しかも最強の一族であることを確信した。
 
 今回はまわる箇所もいつもより少なく、一の宮もなかったのだけれど、それでも普段にも増して濃い時間を過ごすことができた。
 平泉の「達谷窟(たっこくのいわや)」から始まったのだが、出発前に沢史生さんのアドヴァイスによって、北上で途中下車して訪ねた「鬼の館」が、想像以上に素晴らしかった。一般的な博物館かと思っていたのだけれど、かなり大真面目かつ本格的に「鬼」に関する資料が揃えられていて驚く。
 しかもそれらを、主任学芸員の鈴木さんが、一点一点懇切丁寧に説明してくださった。そして、
「当館では、鬼の復権を目指しているんです」
 と笑いながらおっしゃっていたので、それはとても素敵なことですと心から賛同した。
 とにかく館内には、所狭しと鬼に関する品々が。特に仮面の品揃えは素晴らしく、チベットやネパールなどの国々を始めとして、世界各地から集められていた。その中でも、本物の頭蓋骨で造られたという仮面にはさすがにぞっとした。織田信長の気分だ。
 そして一方、I川《鬼平》さんは、そんな鬼たちに囲まれてニッコリと記念撮影をしていた。

 その後我々は盛岡に移動して、未だに磁力を発して周りの磁場を狂わせているという大岩石のある「三ツ石神社」をお参りした。たまたまやって来ていた修学旅行生たちが「つまんない」と感想を述べていたが、それで良いのかきみたち。何を隠そうこの場所は「岩手」や「不来方」という地名の発祥の地といわれているのである。しかも、鬼に関する悲しい伝説もある……けれど、まあ仕方ないのか。
 
 全ての予定をつつがなく終え、ホテルにチェック・インしてシャワーを浴び終えた頃に、講談社文三のもう1人の鬼という噂のあるA藤《修羅編》さんも駆けつけてくれた。今回、彼女の尽力によって、高橋克彦さんと夕食をご一緒させていただけることになったのである。
 高橋さんとは5年前に「わらび座」の『アテルイ』東京公演でお会いして以来。秘書の方もご一緒されて、とても楽しい時間を過ごさせていただきました。ちなみにその時に全員で飲んだお酒は「八重桜」「浜千鳥」「南部美人」の大吟醸。それらをいただきながらお話を伺った上に、色々と質問までさせていただいた。とても勉強になりました。お忙しい中を、本当にありがとうございました。

 高橋さんたちとお別れした後、我々3人は「バー・ラジオ」で紹介された日本一(つまり世界一)スコッチの揃っているというバー「見聞録」へ。
 大きな1枚板のカウンターに我々は並んで腰を下ろし、何を飲もうかとマスターにご挨拶しながら相談。結局完全にお任せしたのだけれど、出てくるスコッチが噂に違わず凄い。たとえば私が誕生年を訊かれて「1958年です」と答えると、目の前には「キャンベルタウン スプリング・バンク1958年」が用意された。
 ちなみにI川《鬼平》さんとA藤《修羅編》さんにも、それぞれ19××年の「ダフ・タウン」と、19△△年の「ジョン・ミルロイ ハイランドパーク」が用意された。つまりこの時我々の目の前に並んだスコッチは「50年物」「○○年物」「◇◇年物」という、芸術的な酒ばかりだったのである。もちろん、どれも味はまろやかで極上。全員で試飲し合った。
 さすが尾崎さん推薦のバーである。その後、何杯飲んだのかは記憶に定かではないけれど(こら)次回再び盛岡に行った際には、必ず寄らせていただこうと心に決めた。

 そして翌日。おそらく相当量のアルコールを摂取したはずなのに、爽快に目覚める。I川《鬼平》さんもとても爽やかな顔で、やはり良いお酒を飲むと次の日には殆ど残らないという証明だろうか。A藤《修羅編》さんとは夜にお別れしたので何とも分からないが、きっと爽快にお仕事をされたことだろう。
 我々は、そのまま予定通りのルートで出発。ローカル電車を駆使しながら、くるくると楽しい取材旅行を終えた。そしてここでも、ある著名な「鬼」をお参りした際に、それまで土砂降りだった雨が急に弱まり、それどころか青空まで覗いた。これは完全に「鬼平効果」だろう。陸奥の鬼たちにも歓迎されたようで、私としても一安心しつつ帰神した。

 ところが、次の取材旅行までは間があったはずなのに、またもや突然の取材旅行が1つ入り、急いで宿と切符の手配をした。
 いや、本当に原稿を書いている暇がないのであった。これを本末転倒と人は呼ぶ(開き直り)。
2008年05月22日(木)17:59

過去ログ
2003年12月 
2004年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2005年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2006年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2007年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2008年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 

一覧 / 検索